「大礼服マーク」の由来についてはさまざまな説がある。発売当時は伊藤博文の長男文吉ではないかとも言われ、また、森下博自身がモデルになったともされていた。
一般には、「毒滅」の商標であり、森下南陽堂のシンボルでもあったビスマルク像がさまざまに図案化されて、デフォルメされながら、日露戦争当時大衆のあこがれだった大礼服姿に集約されていったのだというのが通説であった。
しかし、前社長・森下泰は生前の祖父から聞いた話として、大礼服マークの由来をこう語っている。
「少年時代に祖父に大礼服の軍人さんは誰なのかと尋ねると、祖父は、あれは軍人さんじゃないと笑っていた。あれは外交官だと言うのです。つまり、仁丹は薬の外交官だということです」
仁丹の創製にあたって、森下博は総合保健薬・仁丹の効能を日本中に、さらには中国をはじめとして広く世界の人々の健康のために役立てたいと考えたのである。そして、仁丹に、健康や保険を世界に運ぶ外交官の姿を重ね合わせたのだった。
外交官というイメージがまとまったのちも、数百回におよぶ改作と修正がなされて、トレードマークは決められていった。完成した大礼服の帽子をかぶり、カイゼル髭をたくわえ、謹厳でりりしい中にも親しみのある表情のマークはたちまち大衆の支持を受けた。
積極的な広告戦略とも相まって、大礼服マークは全国津々浦々に浸透し、また、世界各国に広がって「保険の外交官」という役割を積極的に果たしたのであった。
その後、大礼服マークには時代時代に合わせた細かい変更が加えられ、勲章を少なくしたり、英文字を入れたりして、現在のシンプルなデザインになった。
そして、昔からの仁丹ファンはもとより、大礼服を知らない若い世代にも「闘牛士スタイル」として親しまれているのである。
「毒滅の広告」大阪朝日新聞1905(明治38)1900年(明治33年)2月11日、梅毒新剤「毒滅」を発売。「毒滅」の処方は笹川三男三医学博士が開発。商標にはドイツの宰相ビスマルクを使用し、森下博は家財の一切を広告費につぎ込んで、日刊紙各紙に全面広告を出し、全国の街角の掲示板にポスターを出すなど、大々的な宣伝を行った。
当時、梅毒は花柳病、文明病としてその猛威を振るっており、「毒滅」は画期的な新薬として注目された。ビスマルクの「毒滅」、ビスマルクの「森下南陽堂」の名は瞬く間に広まったのである。「毒滅」の成功で森下南陽堂の業績はようやく軌道に乗り始めた。