仁丹と広告は切っても切れないものになっている。
森下博が広告の重要性を知ったのは「三木元洋品店」での丁稚奉公時代であった。独立して森下南陽堂を開業した際、森下博は事業の基本方針のひとつとして「広告による薫化益世を使命とする。」掲げた。すなわち、広告は商売の柱である。と同時に広く社会に役立つものでなくてはならないという「広告益世」の理念を示したのであった。
1896年(明治29年)森下南陽堂は、「金鵄麝香」発売にあたって、4月25日付けの『薬石新報』に全面広告を出したが、これが記念すべき広告第一号となった。さらに、1900年(明治33年)の「毒滅」発売に際しては日刊各紙に全面広告を出すなど大々的なキャンペーンを行って成功を収めた。
1907年(明治40年)に大阪駅前に完成させた大イルミネーションは大阪の名物のひとつとなり、翌年には東京神田の開花楼の上に書方活動式三色イルミネーションによる広告塔も登場した。これらは、単に広告だけでなく、都市の新名所づくりなどを意図したものであった。
また、町名の表示がないため、来訪者や郵便配達人が家を捜すのに苦労しているという当時の人々の悩みに応え、1910年(明治43年)からは、大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた。
当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり、今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる。
「広告益世」の理念が着実に実現されていった、その真骨頂とも言えるのが、1914年(大正3年)にスタートした「金言広告」である。
「天は自ら助くる者を助く」「時を空費するは無情の奢侈なり」など古今東西の格言から厳選した5,000種類の金言を、新聞広告は言うに及ばず電柱広告、看板、紙容器などに入れたのである。
「金言広告」は新しい時代の広告として一世を風靡し、各方面から称賛を博し、学校などから多くの感謝状が寄せられた。